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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 公 : [こう] 1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate
本頁のウラジーミル(、。? - 1216年)は歴代ポロツク公のうちの一人(在位:1184年? - 1216年)である。ルーシの史料には彼に関する記述はなく、主要な史料は「ラトビアのヘンリー」(en)と呼ばれる人物によって書かれた『リヴォニア年代記』である。ウラジーミルはこの書籍の中で、「ポロツクのウラジーミル(Woldemaro de Ploceke)」や「偉大な王(magnus rex)」と記述されている。 ==経歴== ラトビアのヘンリーの記述より、ウラジーミルは1184年頃にポロツク公になったと推測される〔 *(リンク切れ)〕。また、L.V.アレクセーフ(ru)は、それはフセスラフ・ヴァシリコヴィチの死後のことであるとみなしている。ウラジーミルの統治に関しては不明な部分が多く、現存する記録は、リヴォニアの支配権をめぐって北方十字軍勢力と争ったことに関する記述が主である。 ウラジーミルの統治の初期には、カトリックの司教マインハルト(en)に対して、ポロツク公国の支配下にあった、西ドヴィナ川下流域のリーヴ人への布教を許可していた〔『北の十字軍』108頁〕。1191年にマインハルトはリヴォニア司教となった。なお1202年にはリヴォニア帯剣騎士団が結成され〔『北の十字軍』102頁〕、司教領のうち三分の一は騎士団に譲られた。 1203年、リヴォニアを自分の管轄下に取り戻そうとしたウラジーミルはリヴォニアに侵攻した。しばらくの間ユクスキュル(en)(現ラトビア中部の町)を封鎖し、リーヴ人への毎年の賦課を再開した。1206年にリガ司教アルベルト(en)はウラジーミルとの講和条約を画策するが不首尾に終わり〔『北の十字軍』117頁〕、ウラジーミルは同年夏に再びリヴォニアへの遠征を行った。しかし、今回は大編成のリヴォニア帯剣騎士団との衝突を免れ得なかった。この遠征ではウラジーミルはリガの包囲に失敗し、ゴリム(現ラトビア中部のSalaspils(en))でも敗北した〔『北の十字軍』118頁〕。 1208年、ウラジーミルの封臣のヴャチコ(en)は、リヴォニア帯剣騎士団に占領された領土の放棄を強いられ、結果としてウラジーミルの領土は著しく減少した。その後もウラジーミルとリヴォニア帯剣騎士団との間にはたびたび小競り合いが起きたが、講和条約(1210年以降)によって、ウラジーミルはリーヴ人に賦課を掛ける権利を維持した。 おそらく1212年に、リーヴ人への賦課をめぐって、再び紛争が再燃した。今回のJersika(lv)(ラトビア南西部の地名)での講和会議では、リーヴ人への賦課を分割する条約と、リトアニア人に対抗するための、ポロツク公国とリヴォニア帯剣騎士団との同盟が結ばれた。しかしこの講和条約は、結局はウラジーミルがリヴォニアを失い、リヴォニアはリガ司教とリヴォニア帯剣騎士団に移管されることになった。1216年、ウラジーミルはリヴォニアを取り戻すため、新たな戦争の準備に取り掛かった。しかしこの年の復活祭の後すぐに、ウラジーミルはリガへの遠征を目前にして急死した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウラジーミル (ポロツク公)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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